ISBN-4062095408
1999年/講談社
1200円+税
四六上製/184頁
装丁:常磐響
シブヤ系とかJブンガクとか言われる本を初めて読んだ。読みはじめはちょっと苦手かな、という印象。というのも、私は一人称で書かれた小説があまり好きではなくて、それがハマっている場合はいいのだけれども、大抵が「私が、私が」「僕が、僕が」と強く主張してくるから。作品に引き込まれたいのであって、強引に近づいてきて欲しくはない。近づいてこられるほど後ずさりしたくなってしまう。で、本書はその一人称の中でももっとも苦手な「あたし」が主人公。しかも彼女の頭の中で聞こえている声はやたら音引きの多い、完全な話言葉なので、文字になると素直に頭に入っていかない。
しかもこの主人公のやることなすこと、全く共感できない。まずは食べてはもどす、を繰り返す。私自身、数カ月前は悪阻で食べてはもどす、っていうことをしていたわけだけれども、仕方のないこととはいえ、その後にはものすごい自己嫌悪がやって来る。なのにそういう行為を好きこのんで行う主人公をどうしても生理的に許すことができないのだ。
そして醜く酒を飲む。自宅で一人で酔っているときに電話がかかってきて、尿意をおぼえるのだけれども、話を中断したくないがために、手近にあるコップやらペン立てやらの中に放尿する、っていうシーンにはぞっとしてしまう。確かに話を中断してしまうと、もうそれまでのように話すことはできないからっていう気持ちはよくわかる。でもだからといって、分別のある大人はこういうことしないでしょう、普通。
揚げ句の果てに、というかここからがこの話のメインなのだけれども、コンビニで見かけた見知らぬ男について行き、その男のトラックに乗って新潟〜東京を行ったり来たりする。彼女の行動のあまりの無分別さに、これはもう全く理解できない別の世代の話かと思いきや、なんと30歳過ぎの、きちんと仕事をしている女性なのである。
こんな女はいないでしょ、この設定には無理がある、と思いながら読んでいると、ふと帯文にあった「どうして私のことが書いてあるのだろうと思った」という読者の女性のコメントが頭に浮かぶ。嘘だ、こんな女性を自分と重ね合わせられるわけがない、そんな冷めた読み方をしていたのに、突然ものすごい衝撃を受けることになる。それは彼女がスケープゴートにされた子どもだった、ということにである。教師とて人間だから、常に正しい人でいることは難しい。で、よい人間を演じるためのはけ口として、特定の生徒や児童にストレスをぶつけている教師もいるのではないか。他の子供たちも当然教師のその理不尽な行動に気付いている筈なのだけれどもあえて触れないようにする。なぜならスケープゴート一匹の犠牲は全体を守るためには必要であり、それを助けようすれば全体が危機にさらされるか、それとも自分が身代わりにされるかのどちらかだということを本能的に知っているからに違いない。そしてそういった子どもが話題になることが少ないのは、目撃者だった同級生達が忘れてしまっているのか、それとも多分見て見ぬふりをしたことへの罪悪感から忘れたふりをしているのだろう。
実を言うと私自身もそういう子どもだった。だからどういった子どもがスケープゴートとして選ばれるのかがよくわかる。そしてこの主人公がそのタイプにピッタリ当てはまっているところをみると、もしかするとこれは著者自身の経験なのかもしれない、という気もする。そう思うと急に、主人公が身近に感じられて、それまでの許しがたい行為に目をつぶれる気がしてくる。
「どうして自分のことが書いてあるのだろう」と思うのは、主人公がぴったり自分に当てはまるわけではなくて、どこか一つだけ、自分にとても近く思えるところがある、ということなのだろうか。その場所は人によって違うと思うけれど。